東京国立博物館で3月22日まで開催中の「没後400年特別展 長谷川等伯」に出かけてまいりました。

美術関係者による会の企画で、博物館の学芸員さんのお話を会議室で伺ってから、「その名品を網羅した最大にして最上の回顧展」のサブタイトルとおりの七十数点を拝見し、等伯の画域の広さに感動してきました。

等伯は、石川県の能登七尾で生まれ、七十二歳で亡くなっています。学芸員さんによりますと、等伯の生きた戦国時代は、応仁の乱がおきたことにより、結果として京の文化が地方に流れ、等伯もその文化や絵法を学べたのではないかということでした。
等伯は、はじめ信春と名のり、能登の日蓮宗のお寺に赤、朱、緑、青、金を使った多くの仏画作品を残しており、かなりの数でそれが展示されていました。
やがて京に上り、三十代から四十代にかけて信春として活躍します。当時は、狩野派全盛の時代。学芸員さんによりますと、この頃等伯は狩野派の下請け的な仕事もしたということでした。そして、徐々にその画業が世に認められ51歳で等伯を名のります。
後に等伯のライバルとなる狩野永徳は、狩野一族の御曹司で英才教育を受けてきた人、かたや等伯は地方出身の一介の絵師で、絵筆で「天下画工の長」に登りつめた人。そのような波乱万丈の語り継がれる人生も等伯の人気のひとつかもしれません。
有名な京都の三玄院の襖絵は、住職が留守中に勝手に描いてしまったというエピソードもありますが、秀吉にも認められ大徳寺三門壁画をはじめ多くの名作を残します。
特に有名なのが、息子久蔵を亡くし、傷心癒えぬさなか描いたといわれる「松林図屏風」です。小説にもなりましたので私も読みました。学芸員さんが、この作品は等伯芸術の到達点とみて、展示の最後にもってきましたとおっしゃっていましたが同感です。いっしょに参観された方々と展示会場を出てお話をしましたが、皆さん「水墨画って素晴らしいですね」と余韻に浸っていらっしゃいました。等伯は、熱心な法華経信仰者だったそうですが、この展覧会を拝見し、その精神性をつよく感じました。そして、水墨画は墨のみをもって色彩をも越える表現ができることを再認識いたしました。
国際墨画会